27歳で某雑誌編集長の勧めでヌードグラビヤを仕事として取り始めたのがきっかけになり、友人の紹介でHONDAの下請けデザイン事務所からモータレクのカメラマンとして派遣日本全国のサーキットを転戦する。しかしそれだけではスタッフも
HIT MagazinノグラビアページでTOMSを独占取材事務所を維持する事は出来ず編集プロダクションの形態をとり『TETSU VISUAL FACTRY』として運営を開始、
■主な取引先
東スポ、小学館、久保書店、徳間書店、祥伝社、竹書房、吐夢書房、ヤングオート、スキーヤークラブ、地球の歩き方など
ブラック出版社に2年もスタッフこみで在席するも編集局長と名ばかりの役職で逃げ出すのに苦労!
カメラマンという職業はなんでも好きなものを取って金になるわけではない。
もちろん何に使うか、どう見せればいい考えながらとらなければならない。クライアントの考えには絶対従わなければならない。まあそれができればもっと財産が残っていたのかもしれない。
創刊号から表紙撮影を担当
その中でも企画ものと呼ばれるページ受けをすることで
自分のとりたいものを企画として持ち込んでわりかし自由にはやれた。それゆえにプロヂュースという仕事が加わって雑誌業界から撤退した後もなんとかやれている。
それは、カメラマンから何でも屋になることを意味していたのかもしれない。
だから、特に作品という種類のものは残っていない。
撮影した写真はHONDAも出版社も直接納品してしまうので手元には残っていないが現実。取っておきたかった写真もあったが雑誌の形では多少残っているが..........。
Mini Idol Photo
My Special Gests
B21Special
City Boys
振り返ってみると自分の趣味に近いジャンルに傾倒して事業としては結構失敗している感がある。スキーが趣味で冬山が好きとかバイクや車がだとかである。仲間はヌードの世界で結構稼いでいたりとかがある。現実!
それでも商品撮影と人物が一番疲れる、一見して社交的な人間と思われているのだが実はそうではない。人嫌いではないが媚を売らなければいけないこの世界ははっきり言って得意ではないが誰もそうは思っていないみたいだ。
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