1950年新宿で生まれる。

 父がYashicaというカメラ会社のデザイン部長であったため子供の頃から名器と呼ばれるカメラが家中に転がっていた.今、考えると保存しておけば大変な財産であるのだが、親父が分解をくり返していたため勝手に処分して残っていない。初めてカメラを手にしたのは小学校3年フジペットと言うブローニーサイズのカメラで被写体はもっぱら女の子。当時カラーは珍しく高額でコダックとアグファくらいしか無く貴重だった。ガールフレンドを撮り、ポイントを稼いでいたと記憶している。 写真は職業にするまでずっと、続けていたがプロになる気はなかった。理由は親父が仕事で当時の高名な写真家をサポートしていたため周りに多く、プロになるためにはこの人たちの助手入れと言われていた。「やってられない!」と若い自分は感じたからで、当時の助手の扱いは酷いと聞いていたから冗談じゃアない訳で。たかが写真のプロになる為に人間扱いされない訳にはいかなかった。子供であったのだろう、好きな事をやりたくて当時仲間とお決まりのように、バイク、車、音楽とハマって行く! アマチュア無線で先輩の影響を受け、電気系の勉強をし、立川の中部デパートの電気室に就職、1年後退職、とある鉄道会社に入社。

働きながら某公立校デザイン課程を修了。

■1978:会社を独立欲から退社。マンガ喫茶『トレイン』を中野区沼袋に開業!まったくのど素人なりに6年間営業!蔵書数は10,000冊ガロの初版など珍書も多く漫画好きが集まったが回転が悪く1日中忙しいのに儲からないし接客にも向かなかった。

■1981:喫茶店と兼業で近くのマンションを借りTRAIN写真工房として設立、店の客であった久保書店の編集長のすすめで漫画ハンターという?エロ漫画のグラビアページを担当させてもらいカメラマンとして活動を始める。金にはならなかったががむしゃらシャッターをきった。

 雑誌制作は新鮮で編集者のようなことも経験する「お宅雑誌」として伝説のレモンピープルの創刊を手伝う。これがのちの自分を組み立てていく。

■主要雑誌名:レモンピープル/ハンター/週刊宝石/東京スポーツ/ドープなど(担当雑誌関連でこのころコスプレと出会いコミケ誕生にもかかわる)

 当時女の子の写真が中心で、なんとなく欲求不満があった。ここで喫茶店は廃業した。

■1985:歌舞伎町LP新宿に事務所を移転して『TETSU VISUAL FACTORY』に改名。この歌舞伎町のヤクザタワーは、当時よくTVニュースに登場する。実に恐ろしい発砲事件が起き、やくざの事務所からのマージャンのお誘い!飲み会のご招待!いれずみの撮影依頼など、など?これにより実話日本でのやくざ取材の幅が利き、都内のやくざのトップに面識ができ取材のアポが簡単にとれるという怖い状況になる。■主要雑誌名:Grandy/2001/実話日本/ヤングオート/SkyersClub/近代映画/フォーカスなど■単庫本やムックが中心になる。

 

■1986:やっとなんとか食えるようになり周りが見え始めた時、ラッキーにもモータースポーツ系の仕事を紹介されたが経験も無くただ好きなだけだったので不安だらけだった。■HONDAモーターレクレーション推進本部のモーターレクニュースという部署で外部カメラマンとして参加することができた。

 レース取材中心に活動。あこがれの本田宗一郎氏の会社であり、経験不足を補うため実際に自分もバイクやカートと草レースを経験なんとか仕事になる。HONDAでは社員などがチームで会社が主催する『レッドホンダーミーティング』などに参加する。もちろん我々も挙ってさんかしなければ仕事がなくなる。好きだったので苦にはならなかったが、ATV、トライアル、モトクロスなどなんでもやった。 下は初めて手に出来た鈴鹿サーキットのプレスカード

本田技研工業と書いてある所が、自慢だった。

その当時カメラの主流はNIKONであったが、当時モータースポーツはCanonがサポート体制を誇っていたため、この年からキャノンのサポートを受け、主体機材はすべてキャノンに変えた。

 その後もモータースポーツ写真に没頭!

1988年:ツ-リングガイドVideo撮影中バイク転倒により足を骨折金属プレートを入れることでバイクレースは止めざるを得なくなる。休業するまでの間雑誌でもページを展開それまで、サーキットにBIKEで行くなどアグレシブに動けたが限界を感じ、プロデュースや車での取材が増え、モータースポーツからも遠ざかった。

■主要雑誌名: ヒットマガジン/オートPAL、車、バイク関連雑誌など

 その後も、WinterSportsやSkySportsの写真は撮っていたが自然にセッテイングものが増えて、カメラマン+プロデュースと仕事内容が変わって、内容もスチールに加えビデオもプロデュースするようになる。■1990:■スケーターマガジン「オーリー」を担当、?翌年、編集局長として自社スタッフと共に制作に携わる。併せてスノーボード団体の広報を担当し全国のスキー場をめぐり、雑誌は予算がなくHONGKONGの印刷業者で行ったので。(発色の違いに苦悩する!)

そのためキャセイ航空の常連客になる。このころマイレージがあればたいへんなことになっていたのになあ? スノーボード誌をプロデュース+編集を開始以降、人物モデル撮影が増え、自分の雑誌ゆえ自ずから何でも撮らなければならず、器用にこなすようになった。

■主要雑誌名: CHAMIなど美少女系関連雑誌も受注する。

 

■1992:ブラック企業「オーリー」を逃げ出し高田馬場へ事務所移転する。ダイヤルQ2のコンテンツ制作や地方テレビ局の特番を受注制作などを担当して食いつなぐ。編集プロダクションからコンテンツ制作へ締めきりやクライアントの我が儘に振り回されるのに嫌気を刺し以前から興味のあったパソコンの同人ソフト制作を開始!  当時開発マシンはPC9801VX-16bit機だった。これで画像系娯楽ソフトを制作 秋葉原の同人ソフト店;メッセサンオーの世話になり立ち上げる。 この時点でカメラマンとしての単独の仕事はやめることにした。編集プロダクションでは、Videoや番組のプロデュースもたまに手伝っていたので自由にできるこの仕事は魅力的だった。

■1993:(中野へ事務所移転)Videoメーカーの傘下で映像系CDROMの制作を始める CD ROMのオーサリングに寝る時間を惜しんで没頭!  VideoCDを含め最終的には200タイトルのコンテンツを作った。

自社コンテンツ専属のカメラマンとして便利に使われることとなる。■1995:パソコン通信(ファックス通信)からインターネットへ パソコン通信を長くやっていたためインターネットの凄さにはすぐ影響され、自社ページを立ち上げ遊びまくった。CD ROMの衰退に合わせ通販も開始。現在も運営する。

1999年:所沢へ事務所移転

■デザイン関連受注/インターネット通販/コンテンツプロデュース

東所沢1丁目5LDK100坪庭付き納屋つきおまけにサウナ部屋まである社屋を見つけ会社を中野区から4t車を借り大移動となる移転を実行。

■2001年スポンサー会社社長死去に伴いコンテンツ制作を中止!

ネット通販、デザイン受注を中心に運営。

しかし、6年後社屋のオーナーが会社や自宅などすべて競売にかけられ我々も巻き込まれ退居することになり、同時に経営状態悪化との噂に経営がさらに悪化、それに伴いスタッフを整理することになる

■2006年:社宅に利用していた3LDKへ移転しなければならなくなる。

■2008 年ここも改築によりまた下安松の3LDK移転することに、引越し貧乏となる。埼玉県所沢市下安松1019-33

■ビデオコンテンツ、ネット通販を中心に営業!

■2014年3月、自宅である埼玉県所沢市山口257-1に移転!

ネット通販を中心に、受注、コンテンツ制作をマイペースに行っている

以前もこれからも、面白いと思った事中心の仕事のみやる会社として個性を主張!道楽仕事言われようが、欲が無いと言われようが、頑固に自分らしく運営していこうと考えています。よろしくお願いします

 

 

過去のHP_保存企画
リンク切れ、存在しない多数あり注意!

1999年当社が移転した東所沢は我々も未踏の地で当時、今のようにGogleMapもなかったので探検も兼ねてスタッフで分担して地域情報『e-Tokoro LIFE』を作成した。その役割は終わったが当時の情報を残すことにした。スタッフ同士が結婚し記念も含めブライダルサイト『とっておきのウエディングれしぴ』を開設当時は大盛況!検索サイトの走りも作った『大安』。当時北マリアナ諸島にはまって暇があれば探検の旅出ていた。携帯電話とインターネットを繫いで仕事をこなして南国生活を満喫したまさに天国!そこでガイドHPを製作した。今では直行便もなく近くて遠い島になってしまった.中野時代はOTAKU 系のスタッフの関連でコスプレ関連のソフト『アイドルコスプレーヤー』を発売するため情報収集などの目的でHPを作成する.

プロジェクトと称して仕事以外にもスタッフの趣味も仕事化した結果幾つかのプロジェクトが不発に終わる。なぜか人の出入りが多く用もないのに訪ねてくる奴がたくさんいた中でもふらりとやってきて食事を食べて仕事を手伝って泊まって翌朝帰っていくなんて言う娘が何人かいた。中でもCHIEという一風変わった娘が印象深い。人では欲しかったので他にも何人か就職テストのようなチャレンジをやってもらって、それで働いてもらったその一つがプリクラ集めだった。他にも動物好きのスタッフが多かったので社内で各自がペットを飼うというご乱行!あげくにはそれをCDROMにして売り出した。忘れてはいけないのはアダルトショップサイト『ファミー』2000年頃は威光を放っていたが衰退した。現在では完全休店状態

特殊なところではジュエリーやアクセサリーを販売した。『VIOR』『KirinHouse』、コスプレは今でも販売を続けているが、これは旧サイト記録として残している。また当時流行った『ブライス』という人形を始めオタクアイテムのおもちゃ屋『ウルトラホビー』を開設のちにこの店を持って社員が退社若干モメる。
過去に作った『
オールドページリンク』さらにディープな我が社の黒歴史が!

■受注管理サイトペットフード『NPFL

1993年4
富山県チューリップTV

Tokyoレジャー情報(6週)

なぜか母屋の写真が残っていない

■輸入水着販売サイト『ADC45 Anex

■〜2023.09:旧『Digitalbros  HP

TOP